New!!INTERVIEW-vol.48 阿部博

1960年代の日本。サーフィンが未知の存在だった時代、湘南・鎌倉のひと握りの少年達が手探りで波乗りを始め、やがてサーフボードを自ら作り出すようになった。彼らのサーフボード作りへの熱意は、後年日本に空前のサーフィンブームを生み出した。その真っ只中にいたのがレジェンドシェイパーの阿部博さんだ。60年以上に及ぶサーフィンとシェイピングを振り返り、日本のサーフシーンの変遷、海の環境の変化について語ってもらった。

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阿部博/写真 横山泰介

1949年生まれ。鎌倉市在住。14歳でサーフィンを始めてまもなく、サーフボードを作り始める。「テッドサーフボード」、「キティーサーフボード」を経て、1969年「ドロップアウト」を共同設立して、日本を代表するサーフボードブランドに育て上げる。2005年、独自ブランド「アベ・シェイプ・アンド・デザイン」を立ち上げ、鎌倉市市坂ノ下でサーフショップ「グレミーサーフクラブ」をスタートさせた

SURFRIDER FOUNDATION JAPAN (以下SFJ ):まずは、阿部さんがサーフィンを始めたきっかけを教えていただけますか。

阿部:今は公園になってしまいましたが、坂ノ下(鎌倉)の海の目の前で育ったんです。高校2年生で立ち退きになるまで、5、6年住んでいました。家の中から波が見えるから、勉強なんて手がつかない(笑)。近所には長沼(一仁氏「ディックブルーワー」創業者)も住んでいました。同級生のお兄さんが手先が器用でヨットを作ってくれて、みんなで遊んでいたんです。ところが、そのヨットが沈んでしまって。じゃあ、何をやろうかとなって、サーフィンをやろうと。それでサーフボードを作ったんですよ。プラスチックがなかったから、全部木で作りましたね。中学校2年生の時でした。当時、夏になるとフロートという30キロくらいある大きなデカい板に立って乗る遊びをしてたから、サーフィンに入りやすかったんでしょうね

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現在、少年時代を過ごした鎌倉・坂ノ下に自身のサーフショップ「グレミーサーフクラブ」を営んでいる。現在の国道134号線の海側、鎌倉海浜公園になる前の土地に自宅があった。「ここが家だったと若い子に言うと、『えっ、阿部さん、ホームレスだったんですか!?』と驚かれるんですよ(笑)」

SFJ:サーフィンは実際に見たことはあったんですか。

阿部:見たことないです。もう自分達の想像だけで作っていたんです。その時、材木座に住んでいた方が、HANSENのサーフボードを持っていた。それをくまなく見て。で、長沼はお婆ちゃんにねだって、その板を買ったんですよ。あのころで15万円ぐらいしたんじゃないかな。1ドル360円の時代ですよ。10フィートのスリーストリンガーで、すごくいいボードだった。それをみんなで研究して。それから、サーフィン尽くめですよ。もう朝から晩までサーフィン。だけど、子供だから移動手段がなくて、坂ノ下でしかサーフィンができなかったんですよ。そのうち、リヤカーに載せて自転車で引っ張って稲村ヶ崎へ行ったんですよ。「この波、すごいじゃん」って話になって。そこでサーフィンを楽しんで、またリヤカーで七里ガ浜に行って。「ここの波もまたすごいじゃん」みたいになって。それで、江ノ島まで行ったら、今度、佐賀さん達(レジェンドサーファーの兄弟)のシャークス(鵠沼のサーフクラブ)がいたんですよ。それまで全然、知らなかったんです。

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1966年、阿部さんがサーフィンにのめり込んでいた時代の鎌倉・坂ノ下。(鎌倉市中央図書館所蔵)

SFJ:海外のサーファーもよく波乗りにきていたそうですね。

阿部:はい。横須賀のベース(米海軍基地)のネイビー(海軍)ですね。彼らは徴兵だから、もうサーファーだろうが何だろうが関係なく全部送り込まれていたわけ。で、もちろんサーファーもいたんですよ。サーフボードを見たら皆飛び込んでくるわけ。「やらせてくれ」って。ハワイ、カリフォルニア、グアムと、いろいろな所の出身がいて、サーフィンを通じて仲がよくなる。板を貸す代わりに、そのころはまだジーパンが手に入らなかったから、「じゃあ、お前、ジーパンを持ってこい」、「Tシャツ持ってこい」、「ケッズのスニーカー持ってこい」と、物々交換みたいにやっていたんですよ。リーバイスやホビーのTシャツを洗濯して干しておくと、貴重だったから盗まれる(笑)。

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阿部さんは仲間とともに自転車でリヤカーにサーフボードを載せて、鎌倉の波を開拓した。1963年、現在の国道134号線。(鎌倉市中央図書館所蔵)

SFJ:本格的に、サーフボードのシェイパーになろうとした理由は何でしたか。

阿部:長沼はプロ意識が高かったから、「俺はこれで一生飯を食うんだ」って言ってましたね。彼は高校に進学したけど、読売新聞に阿出川輝雄さん(日本のサーフィンインダストリーのパイオニア)がサーフボード工場(「テッドサーフ」)を東京で始めるという記事が載って、それを読んで退学してテッドに就職してしまった。「ええっ!」と驚いたんだけど、「一緒に行こうよ」と誘うわけですよ。一人で神田まで行くのが嫌だから毎日誘うんです。高校3年の終わりくらいから、彼と一緒に夜だけTEDにアルバイトをしに通ったんです。僕は大学に進学したんですが、やっぱりサーフィンが頭から離れなくて、結局就職してしまった。そこでサーファー同士の交流は広がったんですが、僕らもまだ子供なんで仕事をして稼ぐよりは、サーフィンがしたい。それで鎌倉で工場を立ち上げようよう、となって、友人4人で「キティサーフボード」を坂ノ下(現在は鎌倉パークホテルが立つ134号沿い)で始めた。だけど、火事になって、残ったのは4万円の現金と自分達のサーフボードだけ。

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ロングボードからガンまでオールラウンドにシェイプをこなす阿部さん。ショップに飾ってある特別な一本

SFJ:10代後半にして、すごい人生ですね。「ドロップアウト」 をスタートしたきっかけは。

阿部:「ゴッデス」にもいたんだけど、冬は暇になるから仕事もない。そのころ、エド(故小川秀之氏) が大学を卒業してたばかりで、「阿部、サーフボード工場をやりたいんだけど、協力してくれねえかな」と声をかけられたんです。その時、僕も彼も4万円持っていて、自分達のサーフボードも2本ずつ持っていた。そのボードのラミネートを剥がして、新しくサーフボードを作ったわけです。最初は、その4本を売って、8本、16本と、毎年倍、倍、倍、倍、となっていった。それが1969年から35年も続きました。もう作れば全部売れた時代でしたね。エドの戦略もあったし、バブル景気ということもあったと思いますが。

SFJ:60年以上、サーフィンをされていますが、昔と今と比べて、変わったことを教えてもらえますか。

阿部:一番変わったのは、海に出来て、お父さんお母さんが子供のサーフィンのビデオを撮る。昔はありえないですよね。僕なんか「海なんか入っちゃダメだ!」って言われていて、親の目を避けながらサーフィンをしていた。ですが、今は「早くサーフィンしなさい」みたいな(笑)。それがよいとか悪いとかじゃなくて、大きな違い。サーフィンスクールも昔は「ふざけんな。サーフィンは人に教わってやるもんじゃねえよ。自分で覚えるんだよ」みたいな感じだけど、今では教える立場になっている(笑)。でも、まあ、徐々に変わっていきますよね、よい方には変わっていると思うんだけどね。

SFJ:海の環境の変化についても聞かせてもらえますか。

阿部:浸食がデカいですよね。稲村ヶ崎なんか砂浜がもうないじゃないですか。昔は皆で野球をやったり、海の家もあったし、今では考えられない。七里ガ浜も広い砂浜があったんだけど、今は階段まで水が来ているから。波のクオリティは全然違いますね。1980年ぐらいから、変わってきましたね。大崎(湘南のクラシックポイント)は、昔は一つのピークだったんですよ。

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1974年の七里ガ浜、行合川付近の空撮。阿部さんの言葉通り、当時の砂浜は広かった。(鎌倉市中央図書館所蔵)

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1968年の小坪湾。逗子マリーナの造成工事のために埋め立てを行なっている。高度経済成長期の開発は、サーフスポットのブレイクにも大きな影響を与えた。(鎌倉市中央図書館所蔵)

SFJ:阿部さんにとって、サーフィンというのはどういう存在なんですか。

阿部:まあ、人生を楽しく生きるための道具だったのかなと思う。生きていくために必要なものだろうな。サーフィンにどっぷり浸かっちゃったので、サーファーの仲間しかいなくて、サーフィンの仕事しかなくて。そういう生活をしてきたので、他の世界が見えないというか、わからない。でも、世界中の人とサーフィンでつながることができたわけです。ネイビーで鎌倉に来ていたサーファーに、カリフォルニアで再会したりして。あの時代のヒッピー、ファッション、音楽とか、いろんな文化がサーフィンで交錯していた。そういう意味では、いい時代を生きたかなと思いますよ。

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メロウでいつまでもスタリッシュな阿部さん。古き良き時代のサーファーのオーラをまとっている

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