コラム

あと一ヶ月で、東日本大震災から5年

12665818_1046727382057437_806539912_n

私達家族にとって大きく人生が変わることになった2011年3月11日。

あれから5年が過ぎようとしている。

宮城に生まれ育ち、スケートボード、スキー、サーフィンと季節、土地ならではの遊びを父に教えてもらい1つの遊びとして、小学生高学年のころに、サーフィンを本格的にスタート。幸運にも隣町から自転車で海に通う同い年の友人もできたり、日本各地の大会に参加することで交流関係を広げるきっかけになり子供ながらに世界が広がり、海へ、サーフィンに対する気持ちはこのころには、大分強まった記憶がある。

そう今までで、1番長続きし、いつも身近にある海、サーフィン。

父のサーフショップを中学生のころからいつか、継ぎたいと思いながら、サーフィン中心の生活を送る日々。 子供のころ年に数回父の店に訪れるプロサーファーという存在を知り、そのサーフィンを目にし、雑誌の世界の人々、いつしか憧れだったプロサーファーになりたいと思い、当時地元にはいないプロサーファーの代わりに雑誌、ビデオを手本に練習した。

平成元年まで、私達家族は仙台市内に住んでいた。 何度か引越しを繰り返し私が中学2年のころ、父の念願だった海の目の前、浜まで歩いて5秒ほどの距離に住むことになった。

震災が起きるまで、「実家、件職場」となる思い出深い亘理郡荒浜という小さな町。

父がある理由でこの地を選び、私達家族は慣れない土地での生活をスタートした。 浜にはテトラポットが6列、300メートル間隔で縦に置かれ、家々を囲むように高い堤防が配置された小さく、静かな漁師町だった。 サーフィンを始めたころにはサーファーはほぼ居らず、貸し切りの海でサーフィンが当たり前だった。 カレントに流され、テトラポットに打ち上がったりなどなど経験しながらも、 年数回に姿を現す特別な日を待ち焦がれ、年間通し波が豊富なこの地でサーフィンの基礎を固めることができた。

宮城は大きな地震が度々起こる。 2歳のころなので記憶はないが、宮城県沖地震、最近だと、東日本大震災と自然と共存しながらも、今も生き延びることができた。 これまで数えきれないほど、旅に出ては、様々な人々に出会い、地元に帰る。 地元も大好きだか、外に出ることもいまでも大好きだ。

震災と直面した時、悩みごとが容赦なく増えた。

(つまり実家も、家業であるサーフショップも、全て津波で流されたのだ)

どうやって生活しようか? どうやって家族を守るんだ? 実家は跡形もなく消え両親はどうしたら? 友人、知人は大丈夫だろうか? 買い物できない 食べれない 水すら飲めない。 宮城の3月はまだまだ寒い。これから先、サーフィンという生活の一部、仕事、楽しみは続けることはできるか? 自然の恐ろしさは、十分に知っているつもりだったが、なす術なし。復興に携わり地元の方々と力を合わせて頑張ろう。 という気持ちがある反面 家族を支えることに不安があるのに、復興に携わることが、自分に出来るか? そこまでの余裕があるのか? 自問自答の数日。

結果、家族で話し合い、子供のころ夢だったサーフショップの跡継ぎは両親に出来ないと伝えて、神奈川への引越しを決意した。 地元を離れ、県外に出ることに対し、 後ろめたい気持ちを初めて味わった。 今までも、このころの気持ちは忘れないし、心のどこかで悔んでいる自分がある。

しかし、数年前を振り返るよりも、 今、その時に対して向き合うことも学びました。

自分に出来ることをやる。 今回の決断もその1つです。 私は、海、自然から様々な事を学び、海から沢山教わり、与えられました。私が 出来る範囲で、小さな積み重ねをして、これからの自然の変化、環境の変化を感じ、生きて行く。その事を多くの方と共有することができたら、そんな思いでSFJ東日本代表に就任しました。

まずは、繋がりのある場所に出向き、SFJを知っていただくこと、そして一人でも多くの方にSFJのメンバーとして参加していただけるように、この輪を広げていきたいと思います。

東北の海にたくさんの事を教わった一人の人間として、一生懸命頑張りたいと思います。

国際環境NGO サーフライダーファウンデーションジャパン・アンバサダー 越後 将平

執筆者