震災後5年が経った北泉海岸を訪問して

 福島のメジャーなサーフポイントとして、数々の大きなサーフィン大会を行って来た北泉海岸。駐車場、シャワーやトイレの設備のほか、周辺にはキャンプ場があり、夏は海水浴客や全国からそのクオリティの良い波を求めてサーファーたちがやって来て賑わった。北泉海岸を擁する南相馬市は、ずっと残してほしいのどかな日本の田舎町を象徴するような町である。その町の海を愛するローカルサーファーたちが立ち上がり、福島大学経済経営学類の奥本英樹教授が提唱する“サーフツーリズム”を推進し、町と共に北泉海岸を一歩一歩変えて来た。“サーフツーリズム”とは、簡単に言えば海を観光資源としてサーフィンや海辺のアクティビティによって観光を推進しようというものだ。南相馬市はサーファーたちと共に積極的にこの“サーフツーリズム”を推進して、北泉海岸の整備をして来た。そうして北泉海岸は多くの人の憩いの場となり、全国からサーファーたちが集う大きな大会を行う福島を代表するサーフポイントになっていったのだ。

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 その北泉海岸が第2の発展へのステージへと向かい始めた頃に、あの未曾有の東日本大震災が発生、巨大な津波が東日本の海岸線を襲う中で、北泉海岸から約27km離れた場所にある東京電力福島第一原子力発電所の大惨事が起こった。そこから福島県の苦悩が始まったのだ。私は、仙台で生まれ、神奈川で育ったが親戚が宮城県、福島県にいる。震災後少し落ち着いた頃から、宮城や福島に足を運び、復興の現状を自分なりに見て来た。北泉海岸の慰霊祭や警戒区域が解除された福島のサーフポイントにローカルサーファーたちが震災後初のサーフィンをするという現場に取材にも行った。自身のサーフボードを作ってもらっている福島の株式会社MSPの室原真二氏とも連絡を取り合い、南相馬市から福島市内に移動した工場に足を運ぶ中で、震災後初の福島でのサーフィンもさせてもらった。そんな中、震災から少しずつ復興をし始めた被災地の中で、仙台のメジャーポイントである仙台新港がローカルサーファーたちの尽力により復興を進め、大きな大会を開催し、全国からサーファーが集まり出した。仙台の力強い復興の姿を目にしつつ、全線開通した常磐自動車道で仙台から福島を通って神奈川へ戻ることがあった。常磐自動車道には何箇所かに放射線量を表示する電光掲示板があり、その数値を気にしながら走って行ったが、1箇所だけ一桁代があるものの、だいたいは1マイクロシーベルト以下の低い数値であった。それよりも高速から見える家の瓦が壊れていたり、廃墟になっている家々、あちこちに並ぶ黒い袋が目についた。以前に、海沿いの国道6号線が一部区間を除いて通行可能になった時に、夜間に仙台まで行ったことがあった。震災前はこの6号線よりもさらに海沿いにある道を走ってサーフポイントに行ったが、6号線から海側には入れないようにすべての脇道が閉鎖され、道沿いの店は鉄格子で入れなくなっており、明かりのない静まりかえった夜道に福島の現状を垣間みた気がした。しかし、仙台に向かって北上し、南相馬市に入ったあたりで明かりがついた店が並び、ファミリーレストランで夕食を取った。そんなことを思い出しながら常磐自動車道を走り、震災後慰霊祭で一度は訪れたが、震災後5年が経った北泉海岸周辺の今を見に行きたいと思っていた。

 北泉海岸は昨年、テレビでも報道されたが、震災後初の大会を開催した。そして本年、「南相馬市長杯」が復活し、 日本サーフィン連盟の公認大会として開催される。そしてその話をサーフライダーファウンデーションジャパンの関係者である岡田さんにお話し、岡田さんと私で湘南から福島に向かい、NSA福島支部の支部長でもある室原氏に電話をし、北泉の今を見に行きたいということを伝えたところ、ぜひとのこと。室原氏と奥本教授の案内で福島市内から車で、北泉海岸、北泉海岸を擁する北泉行政区の元区長さん、南相馬市役所、第1原発から10km圏内の請戸海岸を訪問することとなった。

 車で南相馬市に向かう道沿いには常磐自動車道を通った時にも見られた黒い袋があちこちに置いてあるのが目についた。除染した瓦礫を入れたものだと聞いた。途中、車は現在全村民が避難をしている飯舘村に入り、以前に通ったときよりも村の建物が新しくなっているのに気づいた。来年3月31日に一部を除いて避難指示が解除されるにあたり、村での生活が再開できるように整備が進められているとのことだ。放射線量を測定するカウンターがほとんど0.1マイクロシーベルトぐらいを常にカウントしていた。また、道沿いで田畑の整備が行われているのが目に入って来た。福島の現在の農業について、奥本教授が話をしてくれた。「福島で頑張る農家さんは地質調査をして大学や研究機関と組みながら新しい農業を考えようと本気でやっています。土を使わない水耕栽培とか、トマトやイチゴを品種改良して作っている人がたくさんいらっしゃいます。いつまでも賠償金だ、風評被害だと言っても前に進まないって。この辺りも今測定をして、作付け可能かを調べていますね。福島の農業は大きく変わると思いますよ。放射線量を測ると同時に地質も調査しています。どんな地質でどんな肥料を使っているかを完璧に後追いができるようなシステムになります。日本一安全な食材になると言えるのでは」室原氏も「俺たち、吸っている空気、土、飲む水、米粒一つまで全部測定しているんだよ」と付け加えた。「調査のために獲った魚についてもものすごい微量の放射線量を測定できる高精度のシンチレーターで測定しているんですよ。魚についてもどこよりも安全を確認しているわけです」

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 そんな話を聞きながら、今まで福島県の野菜をスーパーで目にしては大丈夫かなと心配をしていたが、何を根拠に心配したのかと自分が浅はかに思えた。日本の良き田舎の風景の中に入り込んだ黒い袋を車の中から目にするたびに胸が痛んだが、復興に向けて一歩一歩取り組む姿を目にし、福島はこの苦難を乗り越えて日本一の県になり得る力を持っているのだと明るい気持ちで北泉海岸へ向かった。

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 晴れ渡る空の下の北泉海岸の入り口が見えて来た。工事車両が入り、海岸の整備が行われていた。もともと駐車場だった場所にサーファーたちは車を置くことができ、そこに車を停めて皆で海岸への仮設の階段を上って行った。久しぶりに見た北泉海岸は相変わらず波があり、サーファーは2名ぐらい入っていた。現在、堤防の整備が進められているが、北泉の堤防の形はローカルサーファーの意見が反映され、階段型になっており、ここで大会が行われた場合は観客席にできるようにと考えているらしい。素晴らしいアイデアだなと感心していると、階段を小さなお子さん連れのお母さんが海岸に散歩にやって来た。また、自転車で学生が遊びに来ていたり、ちらほら散歩をしている人を見かけた。やはり海はみんなにとって気持ちのよい場所なのだろう。北泉の現状を確認し、近くに住む元北泉行政区長で現在金沢・北泉地区農地整備組合施行委員会施行委員長の臺野直氏のお宅にお邪魔した。

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 臺野氏は室原氏や奥本教授とともに北泉海岸に多くのサーファーが来ることを推進してきた方だ。「北泉にサーファーが来て賑やかで良かったですね。活気があって。人が集まるということは良いことですから。会話の中に笑顔が生まれ、笑顔の中に活気が生まれるでしょ。でも今朝もサーファーが結構いましたよ。きちっと整備されて来ているし、放射線量も特別高い訳ではないしさ」室原氏は「砂は弱冠線量が検出されることもあるけど、国の基準値より大きく下回っているよ」加えて教授は「国の基準は世界の基準で最も厳しい基準になっていますから」そんな話を聞き、福島に住む人たちは生きるために様々なことに対して測定を行ってしっかり基準を持って生きていると感じた。臺野氏は「0.1マイクロシーベルトぐらいは自然界にもともとあるわけで、何も不安になることはないですよ。除染して黒い袋があちこちに置かれているのが見えることで不安になるのではないかと思いますね。セシウムはもうだいたい半減していますから。あとは“気の持ちよう”。震災前は福島県の海側は陸の孤島みたいなものでしたよ。けれど震災によってこの地域が見直されて来たと思いますよ。常磐道もこんなに早くは開通しなかったのではないかな。これからは開発が進んで良い暮らしができるのではと思いますよ」と楽観的だ。そして「チェルノブイリの事故に携わっていた人が南相馬で放射性物質の検査をされているのですが、確かめられない農薬の方が恐いと言ってましたよ」と続けた。奥本教授によると、大学に研究センターを作ったところ、世界中から福島に関する研究をしたいという優秀な研究者が多く集まって来ているとのことだ。大人や子供の健康調査を行い、そのデータが蓄積されているので、国が福島を医療の先端地域にすると掲げていることにも繋がっていくだろう。「でもやはり風評はありますよ。水稲を植えてもね、それは人ではなくて家畜用になるの。風評被害で価格が安くなってしまったからね。放射性物質は検出されないのですけどね。むしろ虫のつかない野菜の方が恐いと思うけどね」と臺野氏。奥本教授も「遺伝子組み換えの野菜の方がよっぽど危ないと思いますけどね。遺伝子組み換えで作った飼料を食べて育った肉が入って来たらそっちの方が恐いですよ。それらの骨髄を粉末にしたブイヨンとかコンソメスープだって。それに関してはマスコミもあまり言わず、福島の物は言われるっていうのはおかしいと思いますよね。福島は水から何から全部検査しているんですよ。放射性物質以外の成分も全部わかる。危ないものは出荷されないから世界一安全な食のレベルになっているんです」と熱く語った。続けて「鉱山にも放射線を出す鉱物があります。ローマは放射線を出す大理石の建造物が多く、市内で1マイクロシーベルトが検出されるレベルですから」と。実際に福島に来ればイメージではなく、現実を見て、現実に住んでいる人の話を聞くことができると実感した。

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 けれどもここまで福島の人たちが前向きにポジティブになるまでにはさまざまな葛藤、苦労があったのも事実だ。臺野氏に震災直後の話を聞いた。「震災の3日後に東京に避難する時に二本松で自衛隊が放射線量を測っていてね。上着や靴を全部置いて行かなくてはいけなくてね。裸足で行くのかって聞いたら、100円ぐらいのスリッパをもらってね。そのスリッパで東京のスーパーに行ったら、店員さんが“福島の方ですか?”って。先に一人同じような人が来たらしい」室原氏も「宮城に避難に行ったらどこも停電でね。福島戻って来て、福島の総合体育館に行って泊まらせてもらった。7人ぐらいいたけど、その次の日には3,000人ぐらい集まって来て、トイレの前にまで寝ている状態。スクリーニング検査でどこから来たかで分けられて、服、靴全部脱がされて袋に詰められてさ。服がなくて寒いかと思ったけど、人がいっぱいであったかいぐらいだった。俺らは最初の方だったから運動マットをゲットして寝たよ。2日目に仲間から“何号機か屋根が飛びそうだから逃げた方がいい”という連絡をもらったからそこから逃げたよ。いろんな経験させてもらいましたよ」とその当時の様子をさらっと話してくれた。奥本教授も「市の給水が始まって、1人ポリタンク1個を持って行くのだけど、おじいさん、おばあさんが運べないのを見て、高校生が手伝ってあげたり、食べ物がなくなった時に、下の階の人がパンを焼いて持ってきてくれたり、そんな助け合いがありましたね。自分は山形でガソリンと物資を調達して3月13日、14日に仙台に行ったのですけど、あんなに真っ暗な仙台を初めて見ましたね。で、岩沼の農家さんの所に行ったら、意外にも田舎の一軒家は平穏で。そこは発電機を持っていて、簡易水道も、そしてお米もあったんですね。あらためて都市型生活は危ないんだなと思いましたね」と話してくれた。

 そんな当時の話を聞いて時間があっと言う間に過ぎ、臺野氏にお礼を行って、15時にアポイントを取っていた南相馬市役所へ向かった。市役所では経済部観光交流課の涌井秀之課長、佐藤克巳課長補佐が応対してくれた。室原氏と奥本教授は今年復活させる「南相馬市長杯」のことでお二人と連携を取っている。「海開きに向けて、僕らで大会を開催し、北泉の海が安全だという雰囲気を作って行ければと思います」と奥本教授。海開きは北泉の災害復旧作業工事が終わらない限り当然できないが、市としては平成29年までにはという目標を持っているそうだ。まずは堤防を完成させることが先になるが、福島は特に原発の廃炉に向けての作業で人が足りない状況なのだ。大会開催に関して、涌井氏は「月に一度水質検査をしていて、検査では高い値は出ていません。でもそれをどう捉えるかか個人差がありますから。数字的にはこうですよとしか言えないですね。ここに住んで大丈夫ですか?と聞かれるのと同じです」と語った。奥本教授は「数値で我々は根拠にしたいと思っているのですが、必ず何を根拠に?と言われます。これはどうしようもないことですね」と現状を吐露した。「でもね、もともと南相馬の水はきれいなんです。都会の生活排水が流れる水よりも。震災前に関東から来たサーファーが水がサラサラしているって言ってましたけど。福島のことを通して、いろんな場所の水質をもう一度測定してみてはと思うんですよ、水質が悪い所は生活環境が悪い所ですから。確かに福島は一度放射線の問題で風評を受けましたけど、水質レベルで言うと実はすごくきれいなレベルのところがいっぱいなんですよ。福島は検査しまくっていますからそのデータを出せます。国は漁業のために沖合のみですが調査結果を環境省で公開しています。原発から1kmの所でも0.08マイクロシーベルトとかです。海は広いので希釈し、放射性物質は重いので下に沈むため、海の上の方は問題ないレベルになります。川も測定していますが、放射性物質は検出されていません」と奥本教授は続けた。どんなに測定データを提示してもイメージが先行してしまうのはやはりメディアなどの第三者からの情報しか入らないからかもしれない。実際に来てみて言えることは、福島は復興に向かってあらゆる場所、物に対して線量測定を重ねながら進んでいるということだ。奥本教授は「時間が掛かったとしてもやるべきことをやってきちんと情報発信をしていくしかないと思います」と言う。涌井氏は「市役所は安心して生活できる環境をただひたすら作るだけなんです。戻って来てとは言えないです。安全は市が何とかできても、今、安心が求められています。安心にまで持って行くにはまだまだ時間が掛かると思います。一人一人感じ方が違うので」と話してくれた。それに対して奥本教授は「人間って群集心理が働くので一つ大きなムーブメントができると乗っかってしまうんですよ。風評もそうですよね。だから大会とかを通して北泉は大丈夫というサポーターを増やして行くしかないと。段々サポーターが増えていけばみんなが大丈夫と思えることに繋がっていくことでしょう」と南相馬市長杯をやる意義を語った。佐藤氏は「以前は泊まれる施設もあり、この辺りの観光として海というものをイメージする人が多かったですから、市としても海資源を活用して観光客を呼ぶことに力を入れていくべきだと考えています。けれどもまだ環境整備ができていない状況なので、そこは少なからず戻るように努力していきたいと思っています。その一環として今までサーフィンなどで取り組んで頂いて来たことを引き続き取り組んで頂ければと思っています。整備は、県の事業でもありますから全体として整備して頂きながら、市でできることは市でやっていくしかないと思っています。ただ防潮堤が1m高くなり、海が見えなくなっていくので、どんな感じになるかですよね…」そのことについて奥本教授は「むしろ陸地とかソフト面の開発の方が大事だと思いますがね。避難道路を作るとか、こういう状況になったらここに逃げましょうということを子供たちもちゃんと分かっているとか。そういうことに重点を置くべきだと思いますが」と意見を述べた。また、「海岸線は国のものなので、最終的には国の判断になります。ただそこに市民がこうしていきましょうという意見や行動を起こさないといけないです。僕らはそのようなことを細かくずっとやって来ていて、国交省の海岸線の整備の中にはそれまで防災と港湾整備しかなかったのですが、会議で“利用”という項目を入れてもらったんですよ。大進歩です。福島県に関しては整備に当たっては、自然環境の保護ではなく、“回復”にしてもらったんです。一回崩れてしまったので、回復させるような護岸計画をやりましょうって。だからそのような計画でなければできないはずなんです。そんな意味でも南相馬は突破口になれると思うんです。そのためには大会などを通して、海にアクセスできるから海の町っていいなっていう世論を作らなくてはと。そうして年間を通してサーフィンしない人も集まって来るような海の町にしないとと思いますね。1回リセットされたので、もう1回、地元の自然資源と文化に根付いた町を作って行けたら外国の人にも関心を持ってもらえ、盛り上がっていけると思います」と南相馬の今後のサーフツーリズム構想を語った。

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 震災前に北泉の海が多くの人で盛り上がっているのを見て来た。あの光景、いやあの光景よりもさらに素晴らしい光景が見られることが皆の希望だ。「北泉が苦難を乗り越えて、さらに素晴らしい海岸になるといいなと思います」と思いを伝えると、「しますよ!」という力強い返事が返って来た。

 訪問の最後、夕暮れが差し迫る中、第一原発の煙突が見える、請戸海岸まで行った。ここでもカウンターは0.1マイクロシーベルト。第一原発では1日約7,000人の人が廃炉に向けて作業をしているという。福島では多くの人が福島の復興に向けて働いている。福島は今、苦難を乗り越えて立ち上がっている。それを実感する福島訪問となった。岡田さんも私も福島の現実を見て現地の人の話を聞き、明るい未来を信じ実現化に向かって、前に強く進む姿を確認できて、本当に良かったと案内して下さった奥本教授と室原氏にお礼を言った。震災前と変わった風景はたくさんあるが、今も変わらぬ南相馬の夕焼けの風景を見ながら、福島を応援していきたいと強く思い、帰路についた。

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