INTERVIEW-Vol.32 玉井太朗 -中編

 2021年12月、ニセコのパウダースノーが世界的に注目を浴びるようになったきっかけをつくったスノーサーフィンの一人者、玉井太朗さんを訪ね「GENTEMSTICK 」のショールームへと向かった。この冬のニセコは、数年前までの海外からの客が押し寄せていたバブルのようなフィーバーは影を潜め、ただ静かに空から舞い降りる豊かな雪に覆われ始めていた。その傍らで2027年には高速道路の開通、30年にはニセコの隣町、倶知安までの新幹線の開通に向けて、町は止まることなく各所でアコモデーション施設の建築が進んでいる。
 自らがプロデュースするスノーボードを通して、SNOW SURFINGの本質を表現し伝え続けている玉井さん。東京、新宿で生まれ、パウダースノーを追求するスキーファミリーに育ち、釣りや素潜りで自然を識ることになった子供の頃から、通って来たこと、思うこと、その視点や行動力には唯一無二の何かが宿っている。その一部を垣間見る機会となるロングインタビューを3編に分けて紹介。第二編は、ニセコの過去とこれからについて。

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玉井太朗/写真 横山泰介
スノーボーダー、サーファー、スノーボード・シェイパー1962年生まれ、東京都出身、北海道ニセコ在住。競技者を経て、’98年に自らのスノーボードブランド「GENTMSTICK」 http://gentemstick.com を立ち上げ、ボードの開発をスタート。シェイパーとして活動するほか、映像作品の制作、空間デザイン、エッセイや写真集の発表など幅広いフィールドで活躍。パタゴニア・アンバサダーとして、ボードカルチャーの本質や環境保全の重要性を広く一般に伝えている。

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SFJ:ニセコを選んだきっかけはどういうことでしたか?玉井さんが見てきたニセコの過去と、想像できる未来について、話していただけますか。

 スノーボード初の月刊のメジャー誌、『スノーイング』が創刊されて、たまたまニセコと旭岳の取材をするということになり、冬の北海道に来ることになったんです。夏の北海道は親戚もいたので来ていたのですが、スキーファミリーに育ちながらもなぜか冬には来たことがなかった。ちょうどスノーボードに夢中になり始めた頃に、(本州では)スノーボードが禁止とされているスキー場が多かった。ただ北海道は、スノーボードを見て「なんだそれ?」って言われるほど、悪い意味ではなく5年くらい遅れていて、逆にそれが最高だと思ったんです。
 でもやはり「ここはダメだ、そこはダメだ」といった、制約がないわけではない。だったらスキーを履いて山を全部調べようと思い、スノーボードが大丈夫だったアンヌプリというスキー場に行ってみたら、コンディションが非常に良く。「もっといいところがいっぱいあるはずだ」って色々調べると「すごい!」ということになり。それで「何とかして住めないかな」と、取材中にすでに心は決まってしまい、お世話になった宿にも情報提供していただいて、その冬は取材を終えて帰ったんですけれど、もう心ここに在らずという感じになっていました。
 次の夏、1989年か90年くらいでしたが、ニセコ取材の時の宿から「友達がスノーボードのスクールをやりたいと言うのだけれど、協力してくれないか」と相談されて。「これは渡りに船と言う話かもしれない」と、話を聞きに北海道に来ました。場所を提供してもらい、人を集めてスクールをやることになり、僕らとしていい意味でそれを利用して移住という形に。それが最初のシーズンでした。それから何年かしても人は本当にいないし、その間滑っていて思ったのは、あまりに無防備で「10年かそこらしたら、これはとんでもないことになるな」と。当時20代でしたが、若いながらにそう感じました。
 その頃、サイドカントリーという言葉もなかったけれど、バックカントリーにも自由に出られるし、「日本人がスノーボードでどんどん来るだろう。それに合わせてスキーも増えるし、それだけじゃなくて外国人にバレてしまう!」。まだ日本にはそんないい雪はないと思われていた時代でしたから。中には当時からこの雪を知っているオーストラリア人やニュージーランド人もいて、どうやったら彼らが黙っていられるかっていう話でした。これだけ大きな山でこの規模なのに、設備的にも整っていなくて無防備で。誰に話していいかわからないので、一応、スキー場関係者には話始めました。「将来このままでは、ちょっと大変なことになる。ルール作りが必要だ」って。そんな時代でした。
 ある意味、その環境を利用して好きに滑っていたんです。スキー場は裏に出るのも寛容で、良いとか、悪いとか、考えてなかったです。でもやはり亡くなる方もいらして。90年代には僕らも関わる大きな雪崩事故があり、意識が変わりました。90年代後半からは、ローカルルールというものを作って動き始めました。外国の人たちも来るようになり、2000年代に入って急激にその数が増えました。今の時代は一気です。ローカルルールができて雪崩の問題はなんとか治り、90年代の事故以来は大きな事故もなく。でも常に一触即発の状態ではありましたけど、ローカルのみんなも協力して、滑りたいのを我慢するという時期がしばらく続きました。
 でも外国人が増えると、その数には勝てなくて、だんだんルールが形骸化してきて、一昨年の事故に繋がっている。立ち入り禁止のところに、プライベートで滑って亡くなった事故でした。僕らの時代(ニセコの黎明期)の事故は大騒ぎになって、新聞では「パウダースノー=粉雪を滑っている人たちがルールを無視して事故を起こす」という見出しになった。でも今は騒ぎ立てるなと言う空気があります。一人の方が亡くなったというのに、何の騒ぎにもならなかった。昔はまだ不動産の投資なども始まっていなかったけれど、そのくらい土地の価値が変わったということなんです。
 その代わり、色々問題はあるけれど、すごくいい面ももちろんあります。ニセコは文化的に面白い。土地がオープンで、そんなところに色んな人が集まってくる。ローカルのしっかりとした文化があった白馬とか湯沢とはちょっと違う。僕らもそうだったけれど、移住組が入ってきて自由にやらせてもらった。そう言う場所は日本にはなかなかありません。そう言う意味で、半分くらい関わりながら、この土地の結末を見ておきたいですね。ある意味そのくらい面白い場所です。

SFJ:今後、コロナ渦が明けると、ニセコはどうなると思いますか?

 この流れは変わらないでしょう。外国人が入ってきたことで、外圧で開かれた。黒船到来と言う感じですよね。ただそこに野放図になっちゃうということがないように色々提案もしたりしています。大きな開発は行政のやっていることなので、どうしようもないけれど。僕らにしても結局は移住組なので、入るのも出ていくのも自由ですが、出ていかずにここを守っていこうという動きがあり、意識の高い人が多いので、ネガティブな話をしないように、意見を出してやっていこうと話しています。
 そういう意味では、我々の役割というのはちゃんとあるし。僕個人でいうなら、滑り手という立場を崩さないで言葉を選んでいこう、というのがやれることかな。やはりニセコは、白馬みたいに、登山するような対象の山でもないし、その急峻な斜面を滑るような場所でもない。でも誰でもが楽しめて、自然の中で最高の体験ができる特別な場所です。それがなくなるようなこともない。(原発の問題がない限り)そこに立ち返る時がくるはず。騒いでるのは、人間だけ。素晴らしい土地で空気がオープンだから、誰でもが入りやすいし、それは変わらないと思います。

SFJ:ニセコの魅力や価値、この数十年での変化がわかりました。ありがとうございます。日本では、環境NGOは行政に頼られる立場にならないとうまく機能しないと思います。それには我々が見てきた風景を伝えることに可能性があるのではないかと。戦後焼け野原に立って、追いつけ追い越せで必死に働いた世代が、悪かったわけではない。しかし、日本という奇跡的な立地。雪もそうですし、波もそう。美しい山脈と海岸線、寒流暖流が交差していて、四季があって。でも、そのポテンシャルを活かそうとゆっくり考える時間がなかった。結果的に都市計画を考える行政側の人たちにランドスケープを大切にする視点が足りなかった。近代化というヴィジョンの中に自然のポテンシャルを生かして国土を作っていくという構想が欠けていたのでしょう。だから、これからの日本はそれぞれの地域で自然と共生していくための未来のビジョンを、サーファーやスノーボーダーが行政と一緒に考えることが、環境保護に繋がっていくのではないかと思います。すでにニセコは象徴的な場所ですし、POW(*1)の白馬での活動は素晴らしいと思うんです。我々が参加して地域活性化と両輪で進める方法がこれからの環境活動のスタイルだと思います。

*1 POW 2007年、気候変動が雪山に大きな影響を与えることに危機感を感じたプロスノーボーダーのJEREMY JONESが仲間たちとともにProtect Our Winters (POW) を設立。その後、POWの活動は世界11ヶ国に広まり、そして2018年Protect Our Winters Japanの活動がスタート。脱炭素社会を意識した選択と行動がスノーコミュニティのスタンダードになっている。2019年に具体的な成果を出すターゲットとして白馬エリア(大町市、白馬村、小谷村)に焦点を当て活動を開始。白馬のスキー場が先進的な気候変動対策を掲げ、2019年白馬村が全国の自治体で三番目となる「気候非常事態宣言」を発表。他エリアへの影響を期待している。https://protectourwinters.jp

後編に続く

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